HOME > 846の20年

846の20年

自転車は私のタイムマシーン(1)

私は八代正と言います。今日まで素敵な自転車と共に暮らしています。そんな私のこれまでを紹介させていただきます。

私と自転車の関係はこんなことから始まりました。
「お母さん、大変!正が動かないよ」姉がドタドタと階段を走り降りる騒音を微かに覚えています。
それまで真っ黒に日焼けし、特に水泳が好きで「オリンピックに出るぞー」といつも叫んでいた正が急に動かなくなってしまいました。それは小学4年の夏休みの時でした。
 「リンパ急性○○脳髄炎ですね」病因でそんな病名を聞かされました。
母は「何でそんな病気に・・正は完治して普通に生活できるのですか」と医者に聞いたそうです。「解りませんが努力しましょう」とそれは冷たい勧告だったそうです。

 その日から学校に行くことはできませんでした。体が思い通りに動かない、何度も意識が薄らぐ日々を過ごし二ヶ月後、自宅での養生にかわりました。しばらくしてやっとのことで時々学校へ行けるようになりましたが、完全なる落ちこぼれで、九九もローマ字もちんぷんかんぷん。そして休みがちな私はベッドで卒業証書を受け取りました。「卒業ってこんなもんか・・・」これが少年正の初めての卒業でした。
 中学校の入学式も出席できませんでした。遅れてクラスに編入させていただきました。もちろん運動のできない私は青白く自信のかけらも無い少年でしたから、その日からいじめの対象となったことは言うまでもありません。
 病気が再発したのが1ヶ月後の5月前半でした。またもや数週間学校を休む事になりました。私に取って大変なのは病気の再発よりも落ちこぼれによるいじめでした。特に英語の授業は悲惨でアルファベットも解らない私は、英語はまるで宇宙人の呪文のように聞こえ、いつもたじたじ怯えていました。
 そんな寂しくて怯えた中学生活が始まって一学期が終わろうとしているある日、突然職員室に来るようにと指示されました。
「八代、どうだ、少しは体調良くなったか、君は特別に自転車通学を許可するから明日からそうしてはどうだ」と生活指導の先生に進められました。
ここから私と自転車の関係が始まったのです。

自転車は私のタイムマシーン(2)

「八代、どうだ、少しは体調良くなったか、君は特別に自転車通学を許可するから明日からそうしてはどうだ」と生活指導の先生に進められました。ここから私と生涯の生き方を決定する自転車との関係が始まりました。

 中学一年の夏休みが終わり正はさっそうと真新しい自転車に乗って通学することになりました。正の生家は京都の加茂川沿いで、自転車にまたがり京都美術館、平安神宮までおよそ10分。哲学の道近くの中学校まで、ゆっくりでも20分程度の行程です。病弱な正はそれまで40分以上徒歩で通っていたのだから、それはすごいことでした。そしてその日の体調によってはよく遅刻していた一時限目の授業にも遅れることがなくなりました。
「自転車は病気前の僕に戻してくれるタイムマシーンだ」
当時、少年マガジンだったか、そんな雑誌に短編の冒険小説が連載されていました。それは主人公の少年がタイムマシーンに乗り江戸時代にタイムスリップし自転車で活躍するという話しでした。正はまるで自分が主人公になったかの様に、毎日自転車を楽しみ、特に日曜になると朝早くから京都御所や南禅寺など、どこでも自転車で行くようになりました。
「自転車だったら、みんなと同じだ、僕は元気だ!」正少年は自転車に出会う事によって少しだが勇気と希望を見つけることができたようです。
 学校のいじめにさえ毎日耐えれば帰りに自転車に乗れると自分に言い聞かせました。しかし事件は中学2年の夏休み前のある日に突然おこりました。
「僕の自転車が壊されている」
職員室の横に置いていた僕の自転車は無惨に壊されていました。しかたなく壊れた自転車を押しながら歩いて帰ることになり、校門を出た途端にクラスメイトの待ち伏せにあってしまいました。彼等は突然に私を廃屋につれて行くと次々と暴行を加えた。「おまえだけ自転車とは、ふざけんな」が主な原因、そしていじめられっ子だから狙われるのは当たり前、弱虫な私はやられるがまま彼等が過ぎ去るのを待つしか手段はありませんでした。
 あたりは暗くなり、人通りもとぎれた頃、やっと私は開放されました。そして壊れた自転車と壊れた体と心でとぼとぼと歩きました。何度も休憩しながら、泣きながら歩きました。神宮道まで来ると商店街となります。ひときわ急に明るくなったと思うと市電が轟音を響かせすぐ横を通り過ぎました。正は通り過ぎる市電を目で追っているうちに小さな光が気になりました。目を凝らして見ると、そこには「キヨセサイクル」と書かれていました。正は恐る恐る自転車店のガラス戸を開き、中に入りました。「あのー、この自転車直りますでしょうか」
このサイクルショップとの偶然の出会いが私を変えていきます。

自転車は私のタイムマシーン(3)

正は恐る恐る自転車店のガラス戸を開き、中に入りました。「あのー、この自転車直りますでしょうか」
 「直らない自転車なんか無いよ、どれ見せてごらん」
30歳になりたてのオーナー店長がそう言うと壊れた自転車に向かった。そして無事自転車は完治した。三度目の再発は中学三年生二学期、まもなく高校受験の頃でした。高熱と割れんばかりの頭痛、体は痙攣し堅くなりまるで自分の体では無いかのように意のままに動かなくなった。
「また卒業式に出れなかった」と気がついたのは卒業式が終わって二週間も経過し桜も散ってしまった頃でした。
「もう一回三年生をやってもらうね」担任の先生が訪問してくれました。
「でも登校するのは二学期からでいいから」
車椅子無しで外出できるようになった正は、久しぶりにあのタイムマシーンに乗った。まだ遠出はできないし、しばらくこの自転車にも乗っていないので、例のサイクルショップに行く事にした。
 清清しい風がほほをきり、観光客の間を縫うように平安神宮を通り過ぎ神宮道に出る。今日は夏休み前最後の日曜日、サイクルショップには大勢のお客さんが集まっていた。正は圧倒され遠回しにその様子を観察した。○○高校の自転車部がインターハイに行くらしくメンテナンスに来ている。「自転車部って?」と心に問うが全く解らない。解る事は、彼等は素晴らしい自転車に乗っているってことだけ、そしてすごーく早いってことだけ・・・・
彼等が去ってから正はショップに入り自転車のメンテナンスをしてもらった。
その間中、店長はサイクルスポーツや○○高校、○○大学自転車部の活躍の話を聞かせてくれた。もうすぐ夏休み、目を輝かせた少年はリハビリ中にも関わらず、親を説得し230kmの琵琶湖一周サイクリングを計画した。
「正が生まれてきた印しを残すには、このチャンスしか無い、死んでもいいぞ、心配しないから行ってこい」それは正にとって世界一周よりも長い旅の挑戦でした。
「自転車はタイムマシーンだ」
「もう再発はいやだ、いじめられるのも、おびえるのも、死んでも構わない、自分の可能性を試す」
ツールドフランスの映画を京都会館で見たことがあった、毎日毎日すごい選手が何百キロも走りそして輝いている、正はそんなシーンを頭に描きながら風を切った。そしてその無謀とも思える旅は、日焼けし、くたびれた顔から垣間見ることができる自信をお土産に無事終了した。
「そうだ自分でロードレーサーを買うんだ」正は一週間後から早朝、牛乳配達を始め高校入学と同時にロードレーサーを買う事ができました。
その前向きな毎日が良かったのか、病気を完全に克服することができたようです。自転車は素晴らしい乗り物です、私に健康な体と心をプレゼントしてくれました。もういじめも無関係、中学三年では最強の番長と噂されている山根君とも親友になったり、ともかく楽しい日々を過ごしました。
正は高校に入学するとすぐに自転車競技部に入部しました。ここから長い選手生活の始まりです。今でも忘れる事ができない思い出の宝庫です。

うまれてきたしるし(1)

京都では自転車部といえばここと言われる高校にはいりました。クラブ活動の毎日に満足していました。1年の夏、まさかの青森インターハイに出場。種目は 1000Mタイムトライアルでした。結局全国レベルには程遠く、京都に戻った途端に猛練習が始まりました。私には、自転車しかありませんでした。自転車だけが命がけで自分を守る手段だったのでした。
 毎朝5時、もちろん雨の日も生家から比叡山を越えて琵琶湖までを折り返し嵯峨野に近い高校に通いました。制服や教科書、かばんは全て部室に置いたままでした。放課後クラブ活動で北山へ100km走りその後朝と同じコースを走って戻りました。大切な全国大会前に鎖骨骨折したり、レース中にパンクしたりトラブルは山程ありましたが、国体、インターハイでも上位入賞を重ね、日本代表とし国際大会で優勝できるようになりました。そしてクライミングの八代と恐れられ、正がアタックを駆けるとだれも追い掛けてこなくなりました。
「やつは別格」そんな時代も含めて7年間の選手生活は充実した時代でした。それは「やればできる」という大きな自信となって膨張を続けました。また同時に「自転車に関わった人生で全うしたい」と考えるようになりました。
だから選手を社会人になっても続けようとは考えなくなりました。目標が「自転車に乗る」ことから「自転車を創造する」に変わってきました。
 選手を終えた私は自転車関係の会社に就職しました。当時自転車関係では国内唯一の一部上場企業を選びました。そして自転車競技の監督と商品開発室デザイナーとしておよそ10年近くが経過しましたが、私の目標はスポーツとしての自転車であり、より努力が必要と考え、円満に退社しオランダに留学しました。なぜ?オランダって言いますと、正はまだ英語コンプレックスの固まりだったのからです。
 それまで勤めていた会社は情報の提供と言う事で、金銭的にサポートしてくれました。そのバックアップを得て夢を追い掛けることが実現できました。アムステルダム近郊の田舎町スコホルで競技用自転車デザインとコーチ学などを学びました。また当時ツールドフランスのトップメカニックであるバナソニック・ラレーのヤンデ・グランデ氏の指導を受け、ヨーロッパステージレースをコーチ兼メカニックとして転戦しました。まさに「夢のできごと」でした。
 そんなある日のこと、シクロクロスのヨーロッパ選手権に出かけた時のことでした。楽しそうにレースを観戦されている日本の紳士に出会いました。
その方は日本では三本の指に入るトップパーツメーカーの社長でした。
「君の夢は、ヨーロッパステージレースに日本チームを参加させることだな」
「当面はそうです、そして僕のデザインしたコンペティションバイクが世界のトップに君臨することです」
社長は言った「私の目標は君の夢と良く似ていると思う」
二人の考えは一致した。正は帰国を少し延ばし自分がなるであろう実業団チームのヨーロッパ合宿地の検討や、ステージレースに出るための練習レースとしてクリテリウムレースとシス・ジュール(6費日間のトラックレース)を選び、各地の興行主との交渉に入った。
「えージャポネ?サムライは走れるのか?」と言われたロードレース創世記のお話は次に続きます。NHK風だと、「この時八代正は34歳、日本人単独チームがバンデ・ボン・ネダーランド(オランダ一周レース)に出場するまさに2年前のことであった」

うまれてきたしるし(2)

帰国すると正は約束とおり、実業団チームの監督兼コンペティション・バイクデザイナーとして職に着きました。そのため日本体育協会の公認コーチ試験を受け、自転車のコーチとして資格を得ます。しかしこのチームは決して強いチームではありませんでしたが、就任後は当時斬新なヨーロッパ式トレーニング(デュアルスピードトレーニング=集団から飛び出し勝利を得るには、まず集団スピードに無理なく付いていけるスピードを備える)により一躍日本のトップにチームに変貌しました。全日本選手権、全日本実業団、国体など全ての種目で優勝する勢いでした。そのトップ選手達は最近まではトッププロとして活躍し、現在は実業団チームの監督だったり、まだまだ活発に日本のロードの普及に貢献しています。入社1年後ついオランダ行きの機会は訪れました。私達は8人の選手を連れてオランダ各地のクリテリゥムレース、6日間レースなど1ヶ月転戦しました。最初は手も足も出無い状態で、特にクリテリゥムの鋭角カーブ後ほぼ0からの立ち上げスピードの早さには驚き、ぶっちぎれでした。またピスト競技では1周200mのトラックには腰砕けになりました。角度が50°のバンクを走り、止まる時はコートダジュール(退避ゾーン)からコーチのアシストによってやっと止まることができます。だからレースどころではありません。そんな経験を2年ほど経過すると、オランダでも勝つようになり、オーストリアに招待されたりレースの機会は一気に増え、ファィトマネーまで頂けるチームに成長しました。ある時、オランダ一周レースのオーガナイザーがレースを視察し、「来年参加して頂くか検討する」と言い残して帰られました。そして翌年、オランダ最大のレース、全ヨーロッパチームと当時のソビエト連邦のチームが参加する、バンデ・ボン・ネダーランド(オランダ一周レース)に参加する権利を獲得しました。

レースは7日間10エタップ(競技)に分かれます。初日は個人タイムトライアルで、1チーム8人が個々に走り6人の合計タイムで順位は決まります。私達のチームは180チーム中171位と腑甲斐ないスタートでした。それは、参戦するにあたり機材を多く持込むことができなかったためでもあります。本来タイムトライアルとマスドロードの機材は違って当然ですから、当然と言えば当然の結果です。チームは当時オランダ全土で人気のあるの少しHな飲み屋のスポンサーで、マイクロバスにはそれらしい女性のセクシーなデコレーションで飾られていました。私はそんなスポンサーやトレーナー、ドライバー、メカニシャン、コーディネイター(戦略立案)を現地で雇う準備を1年前には完了していました。
初日の午後、最初のマスドレース140kmがスタート・・・残念なことにこのエタップにて早くも当チームから1名が脱落してしまいました。集団速度が「速すぎる。アウトバーンを走ってる時なんて、まるでチームパーシュート並み」と脱落者の弁。
2日目は220km。しかもオランダは風車の国、その国特有の風が選手を襲う海岸沿いのコース。集団は次々と分割し、私達チームは5人が最後尾グループに、2人がその前のグループに入っている状態でゴールを目指します。そしてゴールの町では、まるでクリテリゥムの様に町を周回します。そして日本チームはそのクリテリゥム前で町にも入れずに2名脱落、大会2日を終えて早くも5人となってしまいました。
3 日目の最初のエタップはチームロードです。私達のチームは5人で戦うしかありませんでした。殆どのチームは8名が残っている状況でのスタートです。最初から勝ち目はありません。その結果最下位のトリニダード・トバコの前の179位に総合成績は脱落、サポートカーもついに最後尾のスイーパー前になってしまいました。また午後の160kmではエースの1人だった選手(最も期待していた選手)が意外にも脱落、4日目200kmでも1人が脱落しました。残る選手も体力の限界にきていました。こんなに毎日走るレースは今まで体験したことがありませんでした、私達は3ヶ月前、このレースのため台湾合宿を行い、台湾ナショナルチームの協力でパトカーを先導しノンストップで2週間練習を積んできました、そして最初から最終ゴール地点である、アムステルダムに到着する自信を持ってこのレースに望んできています。しかし5、6、7日と残りは3日、果してアムステルダムに日本チームは到達できるのだろうか、選手もコーチの私もその確率は10%程と思うほど疲れきっていました。
5日目は190kmしかもバンデ・ボン・ネダーランド最大の峠越え。メインエタップです。しかし、そこで奇跡が起きました。日本チームは見違える走りを見せてくれたのです。チーム員の○田、○原、○浦が峠越えでトップ集団に入ったのです。私の乗るのサポートカーはどんどん前の車を追いこしていきます。そしてゴール近くまで2名がトップにしがみつき、初めて感動のゴールスプリントを見せてくれました。そして1名が脱落しまし、脱落した彼は衰退した目つきで残った2人にいつまでも頭を下げて誤り続けました。「もういい」といくら言っても泣きながらあやまり続けました。敗者はすでに別行動で地方のクリテリゥムを転戦していますが、彼はゴールまでサポートをしたいと申し入れてきました。
6日目最初のエタップはクリテリゥムレースそして午後は170kmです。元気を吹き返した日本チームはこの日も驚く活躍を披露しました。トップ集団10人に残り先頭交代を続けていたのです。残り僅か20km集団のスピードは一段と増します。先頭交代はグルグルと回り、誰が先頭かも分らないローティションスタイルに変わったと同時に、ひとりの選手がはじき飛ばされてました。「あっ」悲鳴と同時にそれは日本人であることが判明しました。私はサポートカーから飛び下り救急車に乗り換え、彼と病院へ行くことになりました。結果として最終日のアムステルダムを目指すのは○浦ひとりでした。転倒した選手はベットで微笑んでいました。「悔いは無い、がんばった」彼自身そう言いました。「いいからコーチ、早くチームに戻ってくれ」、彼と次に再開したのは最終日の歓喜のゴールシーンでした。

「八代さん、もしゴールしたら、おれにダイヤモンド買ってくれるか」○浦は言った、後から伝説となった会話である。「いいぞ、トップ集団だったらな、社長とオレで買ってやる」
ドアーの外でトレーナーが私にささやいた「キヨシの脚の筋肉は伸び切ったゴムと同じだ、明日は無理をさせないように」
 最終日前とのことでソビエトチーム、チェコチーム、東ドイツチームなどがジャージの交換や「パーツを売ってくれ」と頻繁に訪れます。私達日本チームはたった1台のロードバイクを入念に手入れをした。夏のオランダは白夜です。夜中11時頃地平線に近付いたと思うと、そのまま水平に進みそして朝方には日は高々と昇ります。
そしてついにラストエタップがスタートしました。ゴールは188km先のアムステルダムです。

うまれてきたしるし(3)

 正のヨーロッパ時代、フランシスコ・モゼールがアワーレコードで世界をアッと言わせる新記録を樹立。その時誕生したのがディスクホイールとファニーバイク(牛の角の様なハンドルと前後車輪径の異なったスタイルのレーサー)。正は帰国後さっそく集めたサンプルを分解し国産のカーボンディスクホイールとファニーバイクを開発し、選手達がそれをテストした。新素材を使った軽量化等、ともかく数々のコンペティションパーツを新しい視点で創造した。だからレース会場は注目の的だった。「力だけでは勝てない、科学と数学をスポーツに役立てこそ、勝利する」なーんてほざいていました。今でもあの時の技術がやくに立っている、おかげで退職後しばらく日本のトップ企業の○○化学と顧問契約をしてカーボンやアラミド繊維、そして接着技術、構造力学などを研究し、アメリカに渡るきっかけとなりました。
話は戻しましょう。188kmのファイナルエタップのスタートラインに並んだのは70名を割っていました。どこからか選手が集まってきます。音楽隊が選手、観客の気持ちをあおる中、ジュリー(審判)の車がスタートすると選手達はのんびりとスタートして行きます。体脂肪の少ない○浦の体重はそれでもスタートから6kgが減少し、血中酸素濃度は通常の70%以下。糖分を摂取すると心肺機能が低下し心拍数は中々上がらないのは分るが、トレーナーは朝食彼にケーキを食べさした。走ることよりも、生命維持に徹したのだ。
車の無線から色々な情報が入ってきます。集団がまた分割したなど・・・いよいよ後30km、レースは動いた、そして○浦は後ろの集団に取り残された、しかしその10分後また集団はひとつになった。ゴールがはるか遠くに見隠れした時、チェコチームが飛び出した。○浦はそれを予期していたように同時にスパート、それはあっと言う間の出来事だった、ゴールスプリントはたった8人、そして数秒後に大集団、後ろが追い付くのか、それとも8人がゴール勝負となるのか・・・
 正にはゴールは見えませんでした。車でゴールラインを通過した時、チーム員が歓声を挙げていた。紙吹雪が飛び交う、まるであたりがスローモーションの様にざわめきの中の静寂に私達はいるようだった。いつもの笑顔、しかし、体脂肪が無く、しわだらけの顔で○浦は言った「ビールください」一息つくと「あしたダイヤ買いに行きましょうね」。この言葉であの8人が逃げ切ったのは確かでした。そして彼のゴール順位などもうでもいいと思った瞬間でした。私は今でも○ 浦が日本最高のレーサーと賞賛しています。そして尊敬しています。
翌年もこのレースに参加しました。そして彼等と合宿や試合や、かけがえのない楽しい時間を共有しました。今でも彼等に感謝しています。
バブルが崩壊すると自転車産業にも大きな打撃が走りました。トップメーカーが次々と淘汰されていきます。私が勤めていた会社も同様に・・そしてまずレーシングチームの解散となりました。彼等は別のチームに分かれて行きました。私は先に退職して行った学制時代の先輩と約束をし、後2年間は会社に残り開発を続けることにしました。正は会社の危機を乗り越えるには外注加工を内作にし、しかも大幅なコストダウンを行うことと考え、広島県にある万年筆メーカーにプラスチック成形と効率制度の研修に数カ月行くことになりました。研修後、中古品の成型機をリースし生産を始めました。またコストダウンのため夜勤も含めた3 交代システムで稼動はじめ、経費の計算、損益分岐点の計算などに没頭しました。
それだけでなく新製品の開発も進めました。と言うのも尊敬している社長、今日まで好き勝手させていただいた社長の、レースに関わる夢をどうしても共に追いかけたかったから夜勤で現場作業をしても、そのまま日中は商品開発の日々を続けてました。そんな中、私の開発番号846番目に誕生したのがテンション・ディスクでした。気が付いたら4日間一睡もしていませんでした。早朝4時に夜勤で成形加工を担当し全員が帰ったかどうかを確認して、工場を締め健康ランドという大形スパで身体の疲れを取ります。そして朝7時には仕事に戻ります。この発明を商品化するには構造解析し、飛行機部品製造会社、素材研究の大手、接着技術の大手とのタイアップが必要となり日本中を走り回り、そして多くの方の努力の結果、量産にたどり着きました。膜構造体力学を使った画期的な製品の完成です。しかし、販売するにはどうするか、まずはトライアスロンに着目し宮古島、琵琶湖など全レースのメカニックと商品提供を実施し、国内のトップ選手全て使っているようになりました。次にUSAをターゲットに開発を始めました。
「なんだかマウンテンバイクって変な自転車が密かな人気らしいよ」この情報を元に正はアメリカに幾度か出張を重ねるようになります、そしてMTBと開発番号846のテンションディスクの接点がそこに誕生します。八代正がフリーデザイナーとなってコンプレックスのあったアメリカにデザインスタジヲ846を構えることになる1年前のことでした。
(つづく)

S.Pasadena

何度もアメリカに出張させていただきました。ハードスケジュールだつたので、飛行機のトイレに入ってるうちに気を失って、降りる寸前で救出されたこともあります。連休の時は自分のお金で何度もオランダからアメリカに渡りました。そんなことをくり返しているうちに、偶然後でMTBの聖地と言われるようになるマンモスレイク(カリフォルニア州でヨセミテ公園の近く)のMTBレースに出会いました。
 正は、当時トップスターだったジョン・トマックに近付き、彼にテンションディスクを使ってもらえるチャンスを得ました。そのジョニーはテンションディスを使って優勝してしまったから大変です。一躍脚光を浴びるようになりました。そんなことが色々ってから、やはりサイクルスポーツを切り離して生きて行けないと考え、徐々にスポーツの世界から離れて行くだろう自分の未来に終止符を打ち、チーム解散時に会社の先輩と約束した仕事を完結し退職させていただきました。

西海岸、ロサンゼルスからフリーウェイ101で15分程走るとサウスパサディナという自然に囲まれた芸術の町があります。小さなコンドミニアムがこれからの拠点となりました。デザインオスダジヲ846の設立です。ここにたどり着くまでには数々のエピソードがあります。まず最初にLAX空港でレンタカーを借りました。ビーチ沿いに走りあるパーキングエリアで車を停めて夕食です。食べ終えて車に戻るとキーを車の中にロックしてしまっていました。正は真っ暗な地下の駐車場で、レンタカーの下に潜り一夜を過ごしました。その時流れてきたのがイーグルスのホテル・カリフォルニアです。今でもそれを聞くと涙が出ます。ビザを取り長期の滞在を可能にすると、次にソーシャルセキュリティーナンバー、そして銀行のアカウントを開いてやっと家を借りることができます。もちろん運転免許とIDも必要でした。安い車も買いガスステーションで排ガスチェックを受けました。電気、ガス、上下水道、ゴミなどの手続きをして、やっとのことで見つけたのがこのパサディナでした。家賃は月額400ドル、決して立派ではありません(でもアメリカでは月10万円もあれば、文句無しに楽しい暮らしができるんです)。新しい出発には○○化学や、多くの方の支援で実現しました。正は常に多くの方の協力にて夢を追いかけているようです。
正はパサディナで毎日デザインをしました。まだキャドの時代では無かったのでドラフターでの作図です。そのうち自転車関係の数社から仕事が入って、何とか生活の基盤が整いました。
MTBのレース、公園でのクリテリゥム、早朝のトレーニングレースなど正は何度も見学にでかけました。そして徐々にMTBの魅力に引き込まれるようになりました。日本の自転車雑誌に3年間MTBを紹介したのがこの頃で、国内からのレース参戦ツアーも始めました(雑誌社にも助けてもらったなー)。 春になるとパサディナはジャカランダという紫の花が一斉に咲きます。まるで桜のようで、陽気な人々は野外パーティを楽しみます。正の日課は午前中サイクリング兼自分のデザインしたパーツのテストライドにハンティングトン・ライブラリーまで走ります。そして行き付けのオープンカフェでブランチを取ります。午後は週に2度ほど映画に行きます。これは英語の勉強のためでした。「想像すれば解る」ともかくアクション物やSFを見ました。いつだったか裁判の映画を見た時はちんぷんかんぷんでした。そしてだんだん会話に勇気が出るようになりました。女流作家シドニーシェルダンのイフ・ツモロー・カムズが大流行し正も初めて原文を読みきりました。あのアルファベットが全く解らない正が・・・
「タダシ、君はいいよ、自転車という共通語を持っているから」と言うコンドミニアムの仲間の言葉が、より勇気をつけてくれました。
パサディナのコンドミニアムには愉快な仲間が住んでいます。ホリデーインのマネージャーは日本人女性に恋していました(後で結婚されました、パーティは最高でした)。青年コンピューターエンジニアはアイディアが取り上げられボーナスが出たから車を買いました(ホンダ・アコードなんだけどアキュラって言うんです)。香港からやってきた女性のアナウンサーは「私は逃げ出してきたの」と不思議な発言(絶世の美女で私達は「美人」の中国読みメイリーンと呼んでいました)。そんな仲間と週末には順番に各部屋を回ってパーティです。正の場合はいつも「手巻きすし」でした。テラスから飛込むと下はダイビングプールです。熱い日は、あちらこちらのテラスから飛込む姿を見ることができます。

MTBレース会場では正の名前が知れるようになりました。そしてNOBAというUSAのMTB組織の正式カメラマンとなって日本国内に多くの情報を送り続けました。ビルダーとも出会いました、トップライダーとも友達になりました。スーパースター達は、その後日本のMTB発展のため正がプロデュースする MTBイベントにボランティアとして何度も参加してくれるようになります。そして日本のMTBの夜明けが始まりました。

私が「物をデザインする」から「環境をデザインする」に変わってきたのはこの頃でした。「生まれてきたしるしとは、物質的な価値でなく、どれだけの多くの仲間と共感しあえるか」、やっとこの頃になって生まれてきた標がなんとなく見えてきたようでした。

Independence(1)

ある日のこと正はジョントマック(後にMTBの神様と言われたスーパースター)達と近くの山に走りに出かけました。有名な日本料理店のジュニアも参加し5名程度のライディングです。途中、枯れたダムにやってくるとジョニー(ジョン・トマック)は、躊躇せずに直滑降で下りました。正しは怖くてしかたがありません。何度もスイッチバックをして何度も尻餅をつきながらも無事に下り切り、上を見上げました。ジュニアは、な・な・なんとジョニーの様に直滑降で下りようと試みたのです。その瞬間何度も回転しながら地面に叩き付けられ鎖骨骨折をしたようです。これでライディングは終了となりました。ジョニーは不機嫌です、無謀なジュニアを叱ります。「せっかくの楽しみが台無しだ」と・・日本だとこれが反対で怪我した者がメインで回りの者が「大丈夫か」と気を使います。私はジョニーに聞きました。
「何で不機嫌なんだ」「当たり前、折角の楽しいライドが不注意によって終わったのだから」アウトドアスポーツは誰に迷惑をかけてもだめなんです。だから正が日本初のDHを始めた最初から、自己責任そして不注意で事故を起こした者は謝るように徹底しました。「怪我をして喜ぶものはいない、怪我が多くなると君たちはもうこの山を走らせて貰えなくなる」そんなモラルの徹底もここから生まれ現在に引き継がれています。そして正はIndependenceという大切なマナーをアウトドアスポーツから知ることになります。「ルールよりモラルが優先」こんな素晴らしい言葉に出会うことになります。そしてここに846スタイルのイベントが確立して行きます。
 
アメリカ最後の年、正はパサディナからサンフランシスコに移り住みその後、帰国しました。自分の少年期がそうだったように、障害を持った方にすごく興味がありました。アメリカのMTBでは車椅子の選手もダウンヒルをしています。そしてこの経験が帰国後オフロード車椅子や障害者にアウトドアスポーツを提案して行く切っ掛けとなりました。
 正は何度か帰国をくり返して行くうちに、日本国内で本場のアメリカンスタイルのMTBレースが開催したくなりました。そして、国内開催となりました。最初は兵庫県三田の柴田ファームというアメリカンスタイルの乗馬コースでした。早速USAの仲間に連絡すると、ネッド・オーバーエンドやグレッグ・ヘルボルト(両者共トップスター)がすぐに来日してくれました、徐々にMTB人気も認知されるようになり、会場を白馬岩岳に移すようになりました。「マウンテンバイクって何だ」という時代です開催OKを貰うには2年かかりました。その後白馬岩岳に常設コースを作りウェスタン・ライディングレースを開催することになります。ウェスタン・・・とはアメリカンスタイルの乗馬の意味で、最もポピュラーなMTBレースの名称です。ダウンヒル、デユアルスラローム、クロスカントリーレース、ナイトライド等が種目です。


 当初は人が集まりませんでした。2回連続の赤字となり正は大きな赤字を背負いました、資金も底をつきましたがそれでも継続すると決意しました。「このままMTBが定着しなかったら、この素晴らしいMTBを発明した人にもうし分け無い」と自分に言い聞かせていました。
そして、その後大ブームとなり常に5000人以上の選手が集いました。正もこれを切きっかけに白馬に住所を移しました。世界のトップスターが毎年レースに参加してくれました。日本最大のクラシックイベントとして誰もが注目する大会となつたのです。MTBと言えば「岩岳」、MTBライダーだったら誰もが目指した「岩岳デビュー」。

 このMTBの楽しさを日本全土に広めようと全国オーガナイザー会議も発足し、富士見パノラマや多くのスキーエリアに情報を提供して拡大を進めました。 MTBコースを常設で解放していただけるならと岩岳のデーター、過去の事故の記録、イベント開催方法、ボランティアの派遣などを実施しました。岩岳が軌道に乗った頃、次なる試みとして、アメリカからミッシェル・シノットという女性選手を雇いました。大学を卒業したばかりのミッシェルはその後3年滞在することになります。この選手を面接し、紹介してくれたのも自転車関連企業で神戸に本社があるK.K○井さんです。正のコンセプトを理解して頂きそして、大和撫子のレベル向上のため、骨を折ってもらいました。来日して半年後、正は日本に慣れたミッシェルにこう頼みました。「USAの車椅子チームを何とか日本に連れて来れないだろうか、交渉してくるなら毎年1ヶ月のUSA公休と渡航費を出してあげよう」、彼女は早速動き出しましたそして1年後USA車椅子チームの来日は実現し日本のオフロード車椅子ダウンヒルの歴史が始まりました。そして勇気ある日本人選手も誕生しました。○村、○野選手がこれを始めてくれていなかったら、もうすでに日本から消えていたでしょう。この両名に敬意を表したいと思います。ミッシェルはとても素敵な女の子でした、3年前ソルトレイクで再開しましたが、現在アウトドアスポーツのツーリストクラブで働いています。現在は女の子から素敵なレディであり、ちょいと一緒に歩くと何となく優越感に浸ってしまう正でした。
 
 しかし白馬で開催してから6年目のことでした。突然白馬岩岳の夏場営業の打切りを索道会社から通告され、岩岳時代は終わりました。そして正は職を失ってしまいました、明日から暮らすための手段を失ったのです。MTBイベントをどこかに移して開催することなど考えることもできませんでした。「夢は途絶えた」・・・11月の東京サイクルショーで「来年も岩岳をよろしく」と企画書を配った直後の話しでした。12月入った最初の週に突然180°方針変更の通告されました。「えっ、」翌年1月から無職になってしまいました。MTBの夏場の活性化は大きな収入となって白馬界隈に貢献はしていましたが、スキー離れは一段と増し、夏場に社員を雇用することは困難となり、また草刈りやゴンドラ運行も難しくなり、ついに白馬岩岳MTBパークは閉鎖されました。

Independence(2)

白馬岩岳が終わる1年前、岩手県大東町(現在は一関市)にふるさと分校という施設が作られるとのことで、そのなかの「遊び」をプロデュースしてほしいという仕事が入りました。そこでアメリカの「遊び」を提案し、インストラクター・クラブというボランティアチームを養成しました。養成講座は6ヶ月で、ホースラィディング、ラビットストリーム、いかだ作り、マウンテンバイキングで、このインストラクターが全国から訪れる子供達を楽しませるというシステムです。多くの仲間ができました、アメリカへ研修にも出かけました。そしてその彼等の力によって、日本最初のインデペンデンス・ボードウオークは誕生しました。インデペンデンス・ボードウォークとは、障害を持った人、高齢で野山が歩けない人、などが自由に自然に親しむ小道です。
木の桟橋と考えて下さい。木々の間に杭を打ちます。もちろん施行にあ当たって一切の重機の使用は禁止で、人力にて行います。次に杭と杭とを橋桁でつなぎ、その上に長さ2m(車椅子がすれ違える長さ)、幅20cmの板が敷き詰められます。車椅子の登れて下れる範囲ですから勾配は5%未満など詳細なルールがあります。(現在国内共通基準として統一しています。国内に岩手県一関市大東町、平庭公園、新潟県苗場、金沢県医王の森にあります (今年からまた新しく2箇所増えます)。上に打たれる敷板は訪れた方に1枚だいたい500円程度で買って頂き、そこにメッセージを書き加えて自分で打ち付けていただきます。この気持ちが繋がったのがインデペンデンス・ボードウォーク(自分で力や工夫で進む木道)です。
 それらに出会ったのは岩岳が閉鎖される4年前に遡ります。当社にはマリコと言うアルバイトがいました。彼女は活発で真直ぐの心を持っている珍しい人間でした。846の仕事をがんばってこなし、そして単身コロラドへ飛んで行きました。現在は846PROJECTアメリカ特派員です。そんな彼女に相談しました。「いつもアメリカから車椅子の選手が来日してくれるのに、日本人もアメリカに行かないとだめだなー」「やりましょう」これだけの会話でフィジカルチャレンジツアーが始まりました。ともかくビデオを作って参加社を集めなくてはなりません。このビデオを編集していただいたのが長野放送でした。長野放送はその半年前「やしろただし、その人生」という1時間番組を作って頂き、月曜スペシャルで放映していただいていました。
 マリコは正がボルダーに到着するなり、歓喜を挙げ
「八代さん、これから行く所できっと泣くよ」と言って歓迎してくれました。
 私達はウィルダネス・オンザボードと書かれた看板の横に車を停めました。あたりはゴールドラッシュの影響か、山岳地帯に登山鉄道の跡が残り現在はサイクリングロードとして使われていてます、その横を清流が流れます。
目を遠くに移すと車椅子で楽しそうに木道を登るたくさんの車椅子の方が見えました。私は走って木道に向かいました。そして木道に到着した途端に脚がぶるぶると震え、動けなくなってしまいました。車椅子で登山をするなんて・・・感動しました。そして目が痛くてたまらないほどの大粒の涙がこぼれ落ちました。それがインデペンデンス・ボードエォーク(自分自身で/人の助けを頼りにしないで進む木の道)でした。コロラドだけでも40箇所以上存在します。人間にとって自然が一番の癒しになると、ここコロラドは教えてくれました。その後2年に一度は車椅子の仲間を一般募集し、このフィジカルチャレンジツアー(ハンディーを体力で克服しよう)は続けています。
 このボードウォークをどうしても「日本に作るのだ」と正は力強く決意しました。そして白馬岩岳が閉鎖される1年前の日本初のボードウォークへつながつて行きます。正は自転車だけでなく、ホイールを使ったスポーツ全体の普及が目標に変わってきたようです。
 白馬の雪はまるで羽毛のようにゆっくりと静かに降り積もります。岩岳閉鎖後は毎日そんな雪を眺めながら、いったい何をしていたのでしょうか、まったく記憶にありません。MTBを避けるように障害者福祉活動に没頭していたようです。春は必ずやってきます。そして正の新しい道が見えて来ます。
 それは今、こうしてここでアドバイザーをしているスポーツサイクル専門会社のトップに出会うと「岩岳が無くなることは業界全体の損失」と言って頂き、すぐに苗場との交渉の糸口を作っていただきました。「やっぱり、私は多くの方の協力のおかげで夢を追い掛けることができるんだ」と実感した瞬間でした。でもそれからが大変でした。イベントを続けるために、白馬時代のイベント機材を私個人の物として購入はしなければならないし、それにも増して10ヶ月以上収入は皆目ありません。資金はすぐに底を尽きました。
「○クドの○本です」とても印象の良い紳士と東京での苗場会議で出会いました。次に冬、苗場で再開しました。「今から岩岳へ行きましょう、皆がMTBを愛していることを知って下さい、苗場で岩岳の歴史を重ねることを望んでいることをその目で見て下さい」正はそう伝えた。正の車で急遽移動が始まった、途中の能生漁港近くで正の車に手をふる婦人を発見「八代さん美味しい蟹があるから食べて行きましょう」「なんで八代さんを知ってるの??」
このさそいに2人は日本海を眺めながら蟹をほうばった。「八代さんはどこでもこんな感じなんですね」そして車は白馬に到着。
 とんでもないことなんです、西武系の方が東急系のスキー場でフリーゴンドラ券を頂くなんて、そして従業員と握手を交わすなんて、「○本さんてなんてすごい人なんだ」その時の率直な感想でした。後でわかった話ですが○本さんて、すごい役職の方だつたんです。そんな立派な方と知らず、正は感激し八方温泉で日本酒を飲み交わしヘベレケになってしまっていたのでした。そして数日後苗場プリンスから開催OKの解答が入りました。苗場時代の始まりです。そして○本さんとの出会いが正の目を日本全土に開かせます。(○本さんは2月1日から九州に転勤されました、私はすぐに遊びに行く予定です)

「ひとはひとを愛してからでしか自然を愛せない。自然は自然を愛する人にだけ優しくなれる」

汗と涙が似ていることをきっと貴方は解るでしょう・・・

白馬岩岳から苗場へ、たったこれだけの事なのですが、タイムラグは大きな壁となつて立ちはだかりました。参加選手が伸び悩みます。「八代は人がやっていない新しい何かをしないとだめなんだよ」ある雑誌社の編集長がそう指摘してくれました。それはその通りで日本のMTBレースは殆ど私のやりたいレースとすでに同じでした。苗場は苗場らしい何かが必要であり、場所を移しただけでは参加者に満足していただけませんでした。
キンダーガーデンを設置して、女性が走りやすいように、ファミリーで楽しめるように工夫をくり返しました。しかし3年続けても確実な手ごたえを感じません。それどころか赤字は増すばかりでした。
一方、○本さんの紹介でフィールドは広がって行きます。滋賀県箱舘山スキー場、新潟県八海山スキー場にマウンテンバイクコースが常設として認められ、まだまだその常設化は広がりつつあります。

フランスとスペインの国境にまたがる小さな国がアンドラ公国です。この場所がルーツのMTB競技があります。それがAVALANCHEです。雪崩を意味する言葉のごとく、参加者が一斉に複数のルートを選んでゴールを目指す競技です。正は「これだ」と考え、その詳細を調べて日本風にアレンジして開催することを考えました。ともかく現地で見ることが大切で、そこに存在するムードとクウォリティを体験しない限りに日本開催は無理です。そしてオーガナイザーの中に入り込んで運営やコンセプトを知り尽くさなくてはならないと考えました。その前に話を少し戻しましょう。

2003年から毎年冬になるとワイ・インターナショナルのショツプにアドバイザーとして仕事をしています。最初は大田区のワイズバイク・ガレージ、2年目は池袋のギャラクシー、そして今年が府中市のワイズバイク・パークです。そしてアバランチを開催しようという切っかけはパークで生まれ、ギャラクシーで育ちました。もし、東京で多くのお客さんやショップの店員の方と話をしなかったら、このアイディアは誕生していないと思います。それにもう一つ大切な要因が加わって実現して行きます。

 「アンドラから苗場大会のため来日予定だったミッシーが来れない」とメーカーからの話しにびっくり仰天「雑誌に載せているのでどうしても・・・」という理由でアンドラに急遽飛び立ちました。そのアンドラを調べていると、なんとAVALANCHEの大会が開催されているでは無いか、正は早速ガレージ勤務のタケゾー(象ではありません)と選手を加えて、さっさとヨーロッパのアバランチを思いっきり体験してしまいました。「どう、タケちゃんいいね」「いいねー」そんなこんなで正は次に会場探しとUCC(ヨーロッパの組織)と交渉を開始しました。当初は志賀高原の予定でしたが、野沢温泉村に変わりました。
何度か交渉をし1年後の冬、ギャラクシー勤務中の12月に野沢温泉村役場よりOKの内示をいただくと、ギャラクシーの○野君と一緒にすぐに飛んで行きました。吹雪きの中、そしてコースの大まかな設定をしました。その夜は死んでしまうと思うほど酒を飲みました。そしてアバランチ・のジャパン開催が具体的に進み出しました。またサローネ・デル・モンテが「フランスへ行こうよ」の最初のきっかけがあったからこそ、アンドラ旅行の実現いたしました。要するに副産物だったので、このアバランチェは・・・

2005年野沢温泉村でアバランチェを開催しました。G.DH Marathonという名称が正式名称であり、AVALANCHEは呼び名ということです。全国各地から多数の参加者があり、地元の協力と日本屈しの温泉地ということで大盛況の内に終わりました。そして2005ベスト・イベントとして評価していただきました、だからしばらくは、このアバランチェをメインに活動することでしょう。
 2006年は6月にS.DH Marathon 苗場プリンスを開催します。前半は雪を残したヨーロッパスタイルです。8月はG.DH Marathon 野沢温泉村を開催。9月は日本初のアバランチェスタイルの100km XC Marathon 木島平を開催します。
また、今年から新しい場所にインデペンデンス・ボードウォークがスタートします、どちらもかけがえのない私の人生です。

The talk goes back

正は未来をかけて琵琶湖一周の旅に出た。このまま病気縛られる生き方はしたくないし、弱虫のいじめられっ子のまま大人になったらと考えると、生きている価値も無いと思いました。自転車は正が唯一普通の子に戻れるギアであり、決して裏切ったりしない仲間でもありました。京都から国道1号線でおおさか山を超えます。道のすぐ横には曲がりくねった京滋電鉄のレールが敷かれています。峠を超えると美しい琵琶湖が見えます。そして石山寺から草津、彦根と湖岸道路を走ってここまでで80km走りました。正は疲れていません、それよりか走りたくてたまりません、母が作ってくれたお弁当を食べました。湖岸は鏡のように穏やかでした。正は物心ついてから琵琶湖が大好きでした。それは毎年夏になると大好きな父親が琵琶湖の近江舞子に水泳に連れて行ってくれるからでした。正は病気になるまで何よりも水泳が好きでした。そして今はその大好きな琵琶湖を見えない敵である病気と戦う為ペダルを踏み続けます。

 北の端である大崎観音を通過してついにダウン、エネルギーの売り切れとなりました。正は砂浜でしばらく眠ってしまい、気が付けば京都を出発してすでに18 時間が経過していました。京都まで120kmという道路標識が見えます。正は疲れきった身体で走り出しました。100km.90kmと距離看板に書かれた文字は小さくなっていきます。湖西の町、今津に到着するともう辺りは真っ暗でした。正はうどんを食べそして水泳場の桟敷きで倒れるように眠りにつきました。
中学三年のやり直し三年の夏、はっきり覚えている夏の景色です。今でも鮮明に蘇ります。「京都→」の看板が見えました、ここを曲がればもう、琵琶湖を回る必要は無くなります。正はハンドルを右に切りました。そして30分、京都府の看板が見えました。正は泣きました、声を出して泣きました。ワァワァと大声で泣きながら走りました、泣きじゃくりは止まりません・・・胸が苦しくてたまりません、生まれて初めて「何かをやり遂げた」満足感はとても大きく、感動はいつまでも続きました。まだ家までは遠いと言うのに・・・

Moreover

私は今、思い出の琵琶湖沿い、しかもあの日、夜を明かした今津町にメインオフィース、846PROJECTを構えています。やはり、今でも大好きな場所です。私のうまれてきた標しは、きっとこの日の琵琶湖一周だったのではと56才になった今、そう感じます。 
 私は多くの人に影響を与えて生きてきました。影響を与えることが怖くてたまらない時もあります、当然責任も強く感じます。これから先もきっと多くの人に出会ことでしょう。
 最後に、先日息子が私にこう言いました。その言葉で締めくくりたいと思います、ありがとうございました。

「最後が来たら、笑顔で死ねるようにしてやるよ・・・だから安心して好きな事をしろよ親父」
Let’s meet again ! 31/Jan/2006
Tadashi Yashiro